たまごのみる夢

天使のたまご


1985/75分/徳間ジャパンコミュニケーションズ

非常に難解な、実験映像的性格も含んだOVA (オリジナル・ビデオ・アニメ、劇場公開やテレビ放映でなく、 ビデオとして売ることを前提に作られた作品のこと)です。
押井守の世界のほとんどを内包する、彼を語る上で外すことのできない作品です。

「箱船」で、独り卵を抱き続ける少女。
陸地を探すべく人々が放った「鳥」を、今も探し続ける少年。
廃虚の中で、二人は出会う。
少女は少年に、彼女が見つけた鳥を見せる。
そして、少女が眠るそばで、少年は卵を割る。

少年を追って水に落ちた少女は、女性へと変貌する。

誰もいない海岸線を、少年は独り歩き続ける。
ただ白い羽根だけが、風に舞い上がる中を。

こんなあらすじを読んでも、何もわからないことと思います。
押井守の、映像主義が強く表れた画面は、 画面自身を物語としてとらえることを要求し、 難解なカット割り、不親切なシナリオが いわゆるごく普通の物語としての見方を否定します。
とりあえず、自分なりにこの作品を考えてみるに、 第一のテーマは「自分以外の誰か」ではないでしょうか。
少女の口を通して何度も語られる、「あなたは、だあれ?」という問い。
自分でない「誰か」が、自分でない「誰か」の世界が、 確かに存在することを信じることができた時、 この世界は「私」の見ている夢などではなく、 唯一の「現実」として信じられるのではないか。
そんなことを感じさせます。

箱船の人々は、水が引いたことを確かめるため、鳥を放った。
鳥は帰ってこない。人々は待ち続ける。何年も。何年も。
そうして、いつしか人々は忘れてしまう。
何を待っているのか。
自分は何者なのか。

水没した廃虚の中、街の幻影から浮かび上がる魚の影。
それを追ってモリを投げる、影の人々。
もうずっと昔に水に沈んでしまった街なのに、 それに気がつかない人々。
幻の魚を追い続ける幻の記憶。
雨だけが確かなもののように、街に降り続ける。
窓に映る、少女と少年。
窓から見つめる、少女と少年。
「ひょっとしたら、ぼくもきみも、彼らと同じなのかも知れない。
大昔の誰かの記憶の中で作られた、幻なのかも知れない。
街には誰もいずに、ただ雨だけが降り続いているだけなのかも知れない。
…ひょっとしたら鳥なんて、もともといなかったのかも知れない。」

この作品は又、彼の好んで用いるモチーフのオンパレードでもあります。
天使。箱船。聖書のテーマ。
水没した街。廃虚。
窓で切りとられた風景。窓に映り込む風景。
割れる窓。
夢としての現実。幻想としての世界。
鳥。卵。魚。
そして、罪深い我々を見つめる、少女の目。
この後の押井守の作品の中で繰り返し使われるモチーフが、 この作品の時からすでにあらわれているのが良くわかります。

技術的に見た時も、このアニメーションは大変興味深いものがあります。
アートディレクションがあの「天野喜孝」なのです。
天野喜孝といえば、独特の「線による密度」を持つ、 ファンタジー画家の大御所です。 最近では、スクゥエアのゲーム「ファイナルファンタジー」シリーズで イメージ画を描いているので、それで知っている人も多いでしょう。
彼のあの絵がそのまま動くのですから、これはもうアニメーションとしては かなりの根性のたまものというしかありません。

あまりメジャーでないどころか、かなりマイナーな作品に入ると思うので、 それなりに探さないとこの作品を見ることはできないでしょう。
それでも、探せばある所にはあるもので、 私は秋葉原で新品のLDを手に入れました。

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